新国際関係論ー戦略的自衛権を声高に叫ぶ前に

要旨:戦後の平和憲法の下で軍事的には永らく安逸な眠りを貪ってきたのび太は、ジャイアンやスネ夫の最近の横暴にどうつきあっていこうかが悩みの種だ。しかしのび太にとっては彼らも友達であるに変わりなく、しばしば大冒険の旅をともにする仲だ。
 子供の世界に弱者に配慮するルールが無いのと同じように、基本弱虫でいじめられっ子ののび太は、ジャイアン達におもちゃを取られたり草野球のルールを一方的に変えられたりという不利益に甘んじつつも一緒に遊んでもらうしか無い。


本論(長い)

■日本国憲法と自衛隊成立の経緯
 日本国憲法は世界に誇る平和憲法でノーベル平和賞をもらって(誰が?)しかるべきという話を聞いたことがある。戦後GHQの指導で明治憲法に手を加えて作ったものだ。マッカーサーの意向が色濃く反映しているのは当然だ。

日本国憲法第9条 
 1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 「紛争の解決手段としての武力の行使は放棄する」という”日本語”を正しく読み理解すれば、現在の自衛隊が違憲であるのは明瞭だ。
 それではどうして自衛隊というなんとも定義しがたい集団が成立したかと言えば、朝鮮戦争時に占領軍として日本に駐留していた米軍がこぞって朝鮮に赴いてしまったので、外国の日本に対する軍事力の行使に向かえるだけの日本国内の軍力が無くなってしまったその隙間をカバーするために、GHQの指導で「警察予備隊」という組織が作られたのだ。これが今の自衛隊の前身と言われる。
 日本に二度と軍事力を持たせないために、戦力の保持を2重3重に禁止した日本国憲法作成に大きく関与したGHQの指令により、結果として日本が戦力を保持することになったのは皮肉な事である。

 この後、我が国は弱小とはいえ一定の”戦力”を常に保持しつつ”憲法解釈”という”屁理屈”をこねて、現状の追認をしてきたのである。


■集団的自衛権の背景
 近年になり、いろいろな意味で国内にストレスを蓄積してきた中国は、領海確保の面ではまさにアジアにおけるジャイアンと化しており、周辺国と常に”紛争”を起こしている。
 最近韓国が中国に寄り添うように見られたが、韓国も中国との領海紛争を抱える中国の周辺国の一つであることに変わりは無い。

 このような情勢を踏まえて、抑止力としての日米安保を有効に機能させるための世界戦略を進める米国とのギブアンドテイクとして、「集団的自衛権」の問題に焦点が集まっている。「集団的自衛権」は中東やウクライナなどの遠国に対する作戦のみならず、隣国との紛争の場合でも行使され得る。

 世は憲法改正すべきか、憲法解釈でいくべきかなどとかまびすしいが、そもそも平和憲法たる日本国憲法第9条に明瞭に違反している現状を考えれば、もし「集団的自衛権」に関するコンセンサスを成立させるのであれば、どちらでも同じことだ。事実が法に先んじてしまっているのだから。まるで戦後のヤミ米禁止令のような話だ。国民みんなが暗黙に了解すれば良いという世界だ。


■「人が死ぬ」という事態を想像できるだろうか
 しかし、ひとつ言えることは、野田聖子議員の「人が死ぬんでしょ」という発言はたいへん重いと感ずる。
 自衛隊を戦地に派遣はするが”戦闘”には加わらない、というPKOとは異なり、「集団的自衛権」を行使するということは取りも直さず”戦力を行使し戦闘に加わる”ことに他ならない。そして”戦闘”すれば当然ながら自衛隊員なり新たに募集された日本人の戦士なりの誰かが死ぬこととなる。
 このような事態となれば良い意味で平和ぼけし心から戦争の現場に戦士として向かうことを厭う私としては到底肯定することができない。人は軽々しく「集団的自衛権」を語るが、紛争の世界で行われている”戦力の行使”とはそういうことで、おびただしい戦地の映像を見ればそれがどれほど悲惨で愚かしいことかと感ずる。
 たったひとたびでも社会的コンセンサスが成立してしまえば、日本は紛争を戦力行使で解決する(できる)国となり、元の平和憲法に準ずる国家にもどることは無いだろう。
 やがて行き着くところは徴兵制の復活だろう。
 戦略的自衛権を声高に唄っているタカ派の政治家たちは、結局は戦争を知らない世代でまた戦争になっても自分が前線に赴かないで良い立場の人たちだ。そんな人たちが勝手に重大な事を押し進めてしまう今のムードはたいへん危険ではないか?


■紛争の解決手段としての武力の行使
 世界各地で行われている実力行使たる戦争。それらの悲惨な映像を見て思う。

 人は衣食足りてなぜに殺し合うのだろう。

 ウクライナの紛争。長い長い時間のなかでどちらかがどちらかに常に搾取され正当な権利の行使を制限され公平な競争を阻まれている、と感じている。一方反対側の人々はそれはそれなりの正義があると信じている。
 しかし、見れば飢え死にする人もいないし着る物が手に入らない人もいないようだ。人の命の維持に全く不要な”武器”という極めて高価なものすら手にできているのだから。(その武器が人の命を奪うとは皮肉な話だ)

 逆に、権力に対する抗争をする手段すら持てない人々がいる。惨めに踏みにじられ、略奪・隷属を強いられ、抵抗する力も無く命を落としていく。難民だ。
 人は難民にまで落ちると、政権を奪還する力を失い、命すら保証されない。とっても”弱い”人々だ。

 搾取され権利を奪われ力を失い難民となる前に、政治を行う力を取り戻し、不利で不公平な制度を覆す。あるいは侵略する敵国と敢然と戦う。それが本来”人の集団”が持つ絶滅を逃れる本能なのかも知れない。人は社会から受ける”ある程度”の不利益は甘受するが、ある日我慢の限度に達したときは”集団として”立ち上がり壮絶な反発を示すのかもしれない。フランス革命では餓えた人々が抵抗力があるうちに立ち上がり王政を倒した。


■お菓子をすこしだけくれてやればいい
 そう考えれば、衣食足り住む家が確保される日本国民は、世界的に見ればたいへん豊かで利便の高い生活をしているはずで、なにも尖閣や竹島ぐらいで国を挙げておたおたすることは無いのではないか?
 ジャイアンがギャアギャア言うのであれば、すったもんだして時間を稼ぎ最終的には尖閣の半分ぐらいくれてあげれば良いのではないだろうか。きっと機嫌がとっても良くなると思う。それでご近所つきあいがうまくいけばいいのでは?
 どのみち今の状態では尖閣諸島の開発は無理だろう。そうであれば、逆にジャイアンと仲良くして一緒に開発するという手もあると思う。
 尖閣がどうしてもなければ日本100年の計が失われるというほど日本は脆弱な国では無いはず。 くだらん誇りや面子は放棄すれば良いのだ。代替策は必ず見つかる。むしろそちらを考えるべきだ。それで1億国民が安全で豊かな生活を送れるのであれば。
 ただし「集団的自衛権」をやらないと米国がどう言うかは不明だ。米国とて安保を日本の利益の為にやっているわけでは無く自国の利益の為の戦略としてやっているのだから、ある程度切るところは切ってしまってもなんとかやっていけるのでは無いだろうか?(つまり日本が戦略的自衛権をやらなくても米国との決定的亀裂にはならない)



■侵略戦争を認め恥じるところから和解が始まる
 それと、事実を事実として素直に認めず、無かったことや済んでしまったことにしてしまうというのは、対立した交渉相手との復縁を計る為の問題解決の態度としてたいへん情けなく、またより事態を輻輳させ問題の整理に利さない。 
 河野談話・村山談話を認めない政府の態度がご近所さんとのつきあいをより難しくしている。ごめんなさい悪かったです、と言うのがどうしてできないのだろう。その補償は別途誠実に協議すれば良い話で、まず相手の立場言い分を尊重するところから交渉というのは始まるのではないだろうか。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 弱いのび太君は時には奪われいじめられながらも、かといってとってもひもじく貧しい生活を強いられたわけでは無い。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 世界恐慌前夜か?それとも今がどん底なのか?
  • Excerpt: 最近ヨーロッパがまたおかしくなってきた。経済好調のイギリスは失速しつつあるし、EUの盟主ドイツもおかしい。もちろん原因はウクライナがらみでロシアとの貿易がうまくいってないことによる。  一時的にECB..
  • Weblog: 横浜コンビニエンスの言いたい放題
  • Tracked: 2014-10-26 12:50